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大阪市立大学で阿倍野区美章園の歴史を聴き、当社の屋号の由来に思いをはせる。

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先週の土曜日、早朝からひと仕事終えて、その足で杉本町にある大阪市立大学へ。土曜日で、しかも朝9時の大学は、とても静かで公園のようでした。じっさい、ご近所と思われる方もウオーキングしていました(笑)

朝早くから大学へ行ったのはシンポジウムを見学するため。


大阪市立大学都市研究プラザ10周年記念国際シンポジウム


会場:大阪市立大学杉本キャンパス・学術情報総合センター10階会議室


9:00~10:20 地域の復元力(ヒトと記憶)
司会:豊下正良(豊下製菓)

9:00~9:20 關淳一(社団法人日本WHO協会)「美章園の思い出⸺關一と美章園について」
9:20~9:40 吉村直樹(田邊ホープゾーン協議会)「田辺のポテンシャルでコミュニティ再生」
9:40~10:00 田丸八郎(信太の森FANクラブ)「信太の森の自然とふるさと館」
10:00~10:20 難波りんご(天王寺蕪の会)「阿倍野の文化創造性となにわ伝統野菜〈天王寺蕪〉の復元力」


いつもお世話になっている田邊ホープゾーン協議会の吉村さんや、天王寺蕪の会の難波りんごさんに加え、ボーイスカウトのキャンプでいつも行っている大阪府和泉市の信太山周辺の森の保存活動をしている田丸さんのお話にもぜひお聴きしたいと思ったからです。

当日、会場に入るまでなぜか全然気がつきませんでしたが、最初の登壇者は第7代大阪市長、関一さんのお孫さんで、ご自身も第17代大阪市長を務められた関淳一さんです。美章園の思い出ということで、阿倍野区美章園の簡単な歴史と、関一が美章園に自宅をかまえたときのエピソードなどを語っておられました。






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写真は昭和11年に関一が美章園に建てた和洋折衷の自宅の写真です。昭和11年から昭和25年頃までここに住んでいました。当時、この自宅の維持が困難になったので大阪府に売却したとのこと。現在は美章園公園として整備されています。

関一は大正8年にこの地を購入。翌年にこの場所に小さな小屋を建てたとの日記の記録が残っているそうです。日記によると、休日ごとにこの小屋を家族で訪れ、休みを楽しんでいたとのこと。写真の自宅を建築したのは、あめりか屋という建築会社だったそうです。

阿倍野区美章園は元々は住吉区桑津町という地名でした。美章園という地名に変更になったのは昭和25年頃です。なぜ、美章園という地名になったかというと、山岡美章という人物が大正10年に美章土地という不動産会社を設立し、現在の美章園周辺の開発を行ったのが由来。美章は昭和4年に亡くなりましたが、その息子の山岡順太郎が阪和線が作られるときに、鉄道用地を寄付し、高架工事の費用も負担し、駅(美章園駅)も寄付したそうです。そのため、地名を美章園とし、駅名も美章園駅となったとのこと。地元におりながら知りませんでした。現在の阪和線は昭和4年に開通したそうです。

聴いていてふと気になったのが順太郎という名前。法人になる前の当社の屋号は「丸順」でした。丸順の由来を父が祖父に一度だけ聞いたことがあるそうですが、祖父は「字のとおりや」と答えただけだったので、じつは屋号の由来は今でも不明です。また、当社の電話番号の「0201」は当時(今もですが)、大阪でとても有名な歴史ある不動産会社にあやかって、その会社と同じ番号にしたと聞いたことがあります。ひょっとすると「丸順」の「順」は、阿倍野区で大規模な開発をし、鉄道用地や駅まで寄付した「山岡順太郎」にあやかっているのでは…、と。同じような時期に阿倍野区で創業しているので、もしかすると…。う~ん、祖父がなくなって45年くらいたつので、もう永遠に謎のままです。





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